とりま、未来視してみる。

高専と大学卒業後、ベンチャー企業を3社起業・経営。と思いきや実家福岡に戻ってカフェで働くことに。

【読了③】天才と呼ばれた田中角栄−天才 石原慎太郎

田中角栄の名言は多く、良く知られている。

有名なものにはに関係するものも多い。

  • 数は力、力は金だ
  • 約束したら、必ず果たせ。出来ない約束はするな。ヘビの生殺しはするな。借りた金は忘れるな。
  • 貸した金は忘れろ。

権謀術数を極め、金の力も使い総理大臣に上り詰めた田中が就任直後に着手した仕事は日米首脳会談と中華人民共和国の訪問だった。

 

言必信行必果

中国との国交正常化交渉。相手は周恩来

連中もかなり焦っているなという気配を感じ取った田中。

「むしろここはこちらが売りで向こうは買いという総体的な関わりなのが強い感触で受け取られたな。後はどう遠回しででも、こちらの取り分をどれだけせしめるということだ。」

日中国交正常化に当たって、台湾の航空機を否定する(青天白日旗)よう中国政府から要請を受け、小を捨てて大に就く事を選んだ。

中華民国は対日国交断絶を発表。日本の飛行機は台湾周辺を迂回して飛ぶことになった。しかし、俺が総理の座をやがて退いて他の代になれば自然に解消されることに違いない。という確信があった。

周恩来が共同声明を発表後に一枚の色紙を手渡してきた。

「言必信行必果」

意味は、「その言葉は必ず真実であり、やるべきことは必ずやりとげる。」

田中は難しい交渉をやり遂げたのである。

 

翌年石油危機が発生。一方的なアメリカ依存の原油。電力を食うアルミ産業が壊滅した。アメリカやメジャーに頼らぬ日本独自の導入ルートを開拓すべきとして、エネルギーの直接確保を努めた。

 

終わりの始まり

総理就任後初の参議院議員選挙が始まる。党として未曾有の公認料一人3,000万円を配った。青嵐会の石原らが田中金脈問題を批判した。

ジャーナリストの立花隆児玉隆也文藝春秋に批判論文を掲載。特に児玉隆也の「淋しき陸山会の女王」で秘書で愛人の佐藤昭を暴いた。彼女は国会の参考人招致を受けることに。 佐藤との娘の敦子リストカットを繰り返し、終いには飛び降り自殺未遂をおかした。初めての子供であった正法を5歳で失った苦い思いでが蘇ってきた。その悲しみに比べれば、総理の地位など大したものではない。

総理の座を投げ出すことに決めた。

田中の苦難は更に続く。ロッキード事件が発生したのだ。

ロッキード社は売り込みのために巨額の資金工作を、日本、ドイツ、フランス、オランダ、イタリア、スウェーデン、トルコに提供していた。

政商小佐野賢治、右翼の大物児玉誉士夫に。そして丸紅経由で政府高官に1,000万ドル 邦貨にして30億円が配られていた。内21億円は児玉のコンサルタント料だったという。児玉に近しいのは河野一郎との関わりからして河野派を継いだ中曽根に他ならない。田中の次に総理になった三木は退陣工作を阻止するために田中事件を利用した。

法務大臣になった稲葉修。彼は口数が多く軽くてあてにならぬところがあって、とても閣僚には向かぬと思っていた。まさかの逆指揮権を発動。田中は逮捕されることになった。痛いことに検察に聴取された田中の運転手が自殺してしまった。直前に秘書に電話があった、誰かにつけられていると。

独居房に入れられる。この時こう思った。

この俺をこの国の頂点まで引き上げてくれたものがこの俺を見捨てるはずは絶対にないと思った。いや信じきった。

収監後、三木と重臣らが密かに集まりこの件に関して名前の囁かれている者たちへの対策を協議した。法務大臣の稲葉から「中曽根くんは大丈夫」と太鼓判を押されたらしい。

逮捕のシナリオはこうだ。ロッキードから丸紅幹部の伊藤宏に渡った金は、秘書の榎本へ。額は5億円。その結果全日空に機体購入の働きかけが行われたと言うものだった。

榎本の離婚した妻の証言がこのような証言をした。女の怖さというものだろう。免責証言(司法取引)という日本にはない制度を使った裁判。これは裁判という名を借りた演劇だった。

俺は俺なりに尽くしてきた、この国のために。

表に立たずとも、陰からであろうと俺なりに何が出来るか?何をするか?ということを考えていた。

 

闇将軍とその綻び

田中は離党したが、田中軍団の力は強大だった。盟友大平を総裁選で当選させた。福田と中曽根をひっくり返す出来事だったが、2年後に大平氏の急去。

中曽根内閣が発足した折には、田中が重用した後藤田正晴官房長官に登用させた。田中曽根内閣と言われる。

そのせいもあって目白の自宅には千客万来だった。裁判が長期化する中で、無所属だったものの地元選挙区では1位当選を続けていた田中は裏から自民党を操り続けた。

逮捕から7年後ようやく一審判決が下った。懲役4年、追徴金5億円実刑。裁判所から目白の自宅に戻ると江﨑真澄、金丸信小沢辰男ら腹心が出迎えた。

榎本が供述した五億円。なぜ彼はそれを認めたのだろうか?調書が取られた当日の新聞に田中が罪を認めたというウソのリークが流れたのだ。親分が罪を認めた。それを信じた秘書は調書に署名したのだろう。

五億などという金は田中にとっては端金に過ぎなかった。膨大な選挙費用を使った。それは必要経費なのだ。先の参院選でおよそ300億円は集めて使った。

田中が退陣してから丸10年。ポスト中曽根には二階堂を立てていき、自分が復権するまで手綱を締めつけていけばいいとでも思っていた。この時点ではまだ無罪が確定したら自民党へ復党し、表舞台と総理への返り咲きを狙っていたのだ。

この頃田中と金丸との間の微妙な亀裂が始まった。

「オヤジの都合でいつまでたっても草履をつくらされているんじゃかなわない」

中曽根が田中に引導を渡しに来たがそれを断った。選挙で田中は完勝したが自民党は惨敗していたのだ。

その後、中曽根は新自由クラブと統一会派を組んでようやく安定政権。「田中氏の政治的影響力を一切排除する」という総裁声明までだした。

金丸と竹下のラインが日ごとに肥大化。

金丸と竹下、橋本龍太郎小渕恵三梶山静六羽田孜、さらに小沢一郎までが創政会の発足準備を進めていた。

小沢がインタビューで「オヤジの方ばかり見ていたら何もできない。自分は竹下さんを総理の座につかせるつもりだ」と発言。

田中は二階堂を総裁にしたかったが事は既に遅かった。1985年2月7日創政会発足。田中軍団からも40人が参集した。

「ああ、権力と言うものは所詮水みたいなものなのだ。いくらこの掌で沢山、確かに掬ったと思っても栓のない話で、指と指の間から呆気なく零れて消えていくものなのだな」

 

さらば田中角栄

創政会発足の20日後。

脳梗塞で左の脳がやられた。声が出ない。子供の頃のどもりが思い出された。 

次の選挙には出馬しないと婿の直紀が発表してくれた。

思えばあれから今日まで俺はどうやって過ごしてきたのだろうか

今のこの国を眺めてみろ、俺のいった通りになっているではないか。 いつか、思いもかけぬきっかけでまたあの俺が蘇ることがないと誰にいえるのだ。

折しもこの年に関越自動車道開通。田中の悲願だった裏日本と東京がつながった。

神楽坂の芸者辻和子との子供のことを思い出す。誰もいない。この俺以外には誰もだ。

眞紀子が辻の子供に会うことを許さなかった。

辻からの電話があったその翌日の午後、田中の体は自分でも分かるほどに変調をきしていた。

体全体が解体されながらどこかに向かって沈んでいくような気がしてきた。

俺はただ、「眠いな」と答えた。

そしてそのままもっと深く永い眠りに落ち込んでいったのだった。